「それが、女」
なんだ、そういうことだったの。
私は自分の胸に突き立てられた包丁を見つめていた。
それは、まるでスローモーションみたいにゆっくりと私の中に入ってきた。息が苦しい。
今まで感じたことのない窒息感。
息をしようとしても、空気が肺に入ってこない。
私がママを殺したのは、高二の夏だった。町中では、もうずいぶん前からミンミンゼミの声は聞かれなくなり、
代わってクマゼミの暑苦しい鳴き声がかしましい。
あの日、家の中ではクーラを切っていた。
弟が夏風邪を引いて熱を出していたのだ。
だから、私は汗を額から頬に、頬から胸に、うなじから背中に、
背中からヒップに絶え間なく流していた。
窓を開け放っても隣の家が直ぐ近くに建っている。
だから風は通らない。
私は台所から、いつもママが料理に使う包丁を取り出し、
ママの心臓目掛けて腕を伸ばした。
テレビなんかでは、体をぶつけるようにして人を刺すシーンを見る。
でも、私は左手は後ろにピンと反らして、右腕を伸ばしてママを刺した。
ママは一瞬呆気にとられたような顔をしていた。
唇がわななき、何か言いたそうだった。
私はママが何を言いたいのか、全く興味がなかった。
命は、スウッと消えていくのだ。
ゆっくりとロウソクの最後の明かりのようにスウッと。
ママの目は私の汗だくの顔を見つめ続けたまま、
少しだけ微笑んだようだった。
ママはゆっくりと膝を折って倒れた。
私は早々に包丁から手を離していたので、
ママの新鮮な死体を上から見下ろしていた。
特に感情の波が揺れるわけでもなく、風がない部屋の中、
胸から上がってくる自分の女の匂いが、甘く気持ちよかった。何故ママを殺したのだろう。
私はずっと考えてきた。
私はママが嫌いではなかった。
流行の姉妹のようにベタベタな親子だった訳じゃないけれど、
私はママが好きだった。
ママは、私にも弟にも、同じように優しかった。
カミュが書いた作品のように、
私はママを殺したのを太陽のせいにはしないし、
耳障りな鳴き声を立てるクマゼミのせいにも
蒸し風呂のような部屋の暑さのせいにもしない。
でも、通じるところはあるのかも知れない。
私がママを殺すのは、とても自然なことだったのだから。どうしてママを殺したのだろ。
大好きなパパと結婚したから?
大好きなパパとセックスをして私と弟を生んだから?
パパはママを女として見るのに、私はただのパパの子供だから?
ママが弟にはおでこにキスをするのに、私にはしてくれないから?
私は女で、やはりママも女だから、ママは私にキスをしてくれないの?私とママは顔がよく似ていた。
自分でもそう思っていたし、周りの人にも良くそう言われた。
自分にそっくりだから目障りで殺した?
全然違う。 今でもどうしてか、分からない。ママを殺した私は結婚をしなかった。
誰かと家庭を築く権利なんて、ママを殺した私にあるはずがない。
でも、私は子供を一人だけ産んだ。
娘だ。
仕事場で出会った男だった。
愛してもいなければ、好きでもなかった。
ちょっと悪ぶっていて、でも寂しがり。女が好きなタイプだ。
真面目で誠実だったパパとは、全く印象も違う男に私は抱かれ、
そして妊娠した。 子供が出来たと分かって、男は逃げていった。私は彼を追おうとは思わなかった。
だって、私は彼が好きでもなかったのだから。
彼を欲しがったのは、そう私の体だけだった。
私の体が、彼の体を欲しがった。ただそれだけ。娘を堕ろす気には、ならなかった。
それも理由が見当たらない。
好きでもない男の子供。子供好きでもない私の子供。
でも、私は堕ろさなかった。
一日24時間強烈な船酔い状態のつわりと、
体を股から裂かれるような陣痛の痛みの末、
娘は元気に生まれてきた。娘は可愛かった。
父や弟に頼れる身分ではないので、
私は娘を保育園に預け、必死に働いた。
体がボロボロになっても、幼い娘が笑ってくれると何もかも吹き飛ぶようだった。
娘が三つにもなると、私は髪を伸ばさせ、細い三つ編みを幾つも編んで、
キャンディがついたゴムで止めてやった。 休みの日には、大好きな
ひらひらのピンクのスカートをはかせて手をつないで歩いた。お話しが分かるようになると、私は古本屋で絵本を買って、
膝に座らせて読み聞かせた。
私が娘と同じ年だった頃、ママにして貰ったように優しく胸で抱きしめてやって。私は幸せだった。
そして、必死に生きた。
それが私だった。子供はどんどん大きくなっていく。
そして親から少しずつ離れていく。
それが自立なのだ、それが自然なのだ。
親が寂しがって子供にしがみついても始まらない。年長さんになると、毎日違う男の子と結婚式をして帰ってきた。
小学校に入ると、彼氏が出来たと無邪気に話してくれた。
中学に入る前には、告白されたと恥ずかしそうに打ち明けてくれた。
可愛い私の娘、その娘の目にあったのは、
羞恥の中にも私に対する絶対的な優越感ではなかったか。
中学に入ると、夕方遅くまで娘は部活に打ち込んだ。
部活の先輩に娘が憧れていることを、娘の友達が教えてくれた。
どんな子かと聞くと、娘の父親にも、私のパパにも似ていない感じだった。
一緒にお風呂に入らなくなってどれくらい経つだろう。
一緒に入りたがる娘に、一人で入りなさいと言ったのはいつのことだったか。
それは何故だっただろう。
自分の裸を、娘に見られたくなかったからだろうか。
娘の肌はピンク色でみずみずしくて、触ると気持ちいいのに、
私の肌ときたらかさかさで、小汚くシミもバラバラと浮いている。娘はどんどん離れていった。
でも私は娘を愛していた。
女として咲き誇っていく娘を、誇らしくも思っていた。高校に入ると、娘は夜遅くに帰ってくることもあった。
ごめん、塾の受業が長引いちゃったと、チロッと舌を見せて笑う。
こんな時しか娘は私に笑いかけない。
でも、それが小癪に可愛い。
私は何も言えずに曖昧に笑い返すことしかできない。なんだ、そういうことだったの。
私はやっと全てを理解できた。
母という生き物を、娘という生き物を。
息を吸おうとしても空気が入ってこない。
ゆっくりと体に酸素が回らなくなって、意識が遠のいていく。怖くはない。
私は必死に娘に伝えようと口を動かしたが、言葉は出てこない。
娘は表情のない顔で私を見つめている。
そして、しっかりと包丁が両手で握りしめられていている。
娘の頬に流れる幾筋の汗は、薄くピンクに輝くように美しい。私は笑おうとした。
でも、頬の筋肉が、こんなにも重いものだったとは知らなかった。
良いのよ、それで良いの。あなたは悪くないわ。
でも覚えておいて。あなたのママはママのママを17歳の夏に殺したわ。
そう、あなたが今、17歳の夏に私を殺したように。
そして、あなたもいつか、あなたの娘が17歳になった夏のある日、
胸に切っ先を沈められて死ぬの。 良いのよ、それで良いの。
それが、女なのよ。私の言葉は、娘に届いただろうか。
死ぬとは、全ての力がスウッと抜けていくことなのだ。
私の膝が、立つことを諦めたようだ。